「臓器は「商品」か―移植される心 」 出口 顕 著

絵本の中のアンパンマンは、顔を丸ごと入れ替えている。頭を入れ替えても、アンパンマンはアンパンマンのまま。性格も心もそのまま引き継がれている。頭が入れ替わっても、脳が入れ替わっても、その人はその人であり続けるのか? だったら脳の移植も可能なのか?。。。と、この本はアンパンマンの話から始まる。

なんとなく内蔵の移植はアリと思えるけど、脳の移植となるとありえないことだと感じる。それはその人の性格、心が脳にあると無意識に感じているからだ。

臓器移植の技術はどんどん発達しているけど、臓器は「商品」ではなく「記号」として扱われるため、誰でもが受け入れられるものではなくなっている。「記号」とは、元々の所有者の存在と切り離せないものということ、所有者の分身であるということだ。全くのモノとして扱うことができるのなら、臓器移植はさほど難しいものではない。でも提供者(ドナー)にとってもレシピアントにとっても、それは単なるモノとは思えなかったりする。
臓器移植の話には、脳死の問題もついてまわる。脳死の判定基準は現行のものでいいのか? 日本人の死生観は? そしてそれは他国とは違うのか?


私は、自分の臓器は提供しても構わないと思っている。でも夫がもし先に亡くなったとしたら、その臓器を提供できるだろうか? できないような気がしている。さっきまで生きていた家族を、医者が「死」と判定したからと言ってモノ扱いできるような気はしない。臓器移植に適さない、フレッシュじゃない状態になってからやっと死を受け入れられるかもしれない。それでもモノとは思えないような気が。
理論として思いを巡らすことはできるけど、いざ自分や自分の家族に置き換えて考えてみるとなかなか難しい。

「臓器は「商品」か―移植される心 」

臓器は「商品」か―移植される心 (講談社現代新書)

出口 顕 / 講談社


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by studio-yaya | 2010-01-20 23:00 | | Trackback | Comments(0)  

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